2009年06月16日
夫の霊に会いたい
ブログには、アクセス解析の一つとして検索キーワードの機能が備わっています。
だからそれを見れば、どんなキーワードで検索した結果、ブログにつながったのかがわかるのです。
私のブログの検索キーワードとして記録されたものの中に、
「夫の霊に会いたい」という言葉が、少し前から残されていました。
本当にこのキーワードでつながるのだろうか?
このキーワードを打ち込んで検索してみると、5番目のページの真ん中あたりでヒットしました。
「夫」や「霊」という言葉は出てこないのですが、「会いたい」という言葉でつながっているようです。
この言葉を通して、このブログへたどり着いた誰かは、
きっとまた、その先へも何かの手がかりを求めて、検索を続けたのではないでしょうか。
どのような思いで、どのような願いを込めて、この言葉を打ち込んだのでしょう。
霊の世界の不思議は、それが誰であるのを知らなくても、
そのエネルギーを十分に感知することによって、さらにその目的を検索し得ることにあります。
つまり、この誰かが捜し求めている、夫の霊にアクセスすることができるのです。
余計な事とといえば、余計な事なのでしょうが、
知らない誰かが、祈りを込めてこのブログに来て、私の知らない間に通り過ぎて行ったのなら、
その誰かの知らないところで、私が、その会いたい夫の霊の思いを伝えることも、
同じように、知らない間に通り過ぎて行ったこととして認められるものなのでしょう。
このことは、意味がないことのように思えても、本当は深い意味をもつことなのです。
何故なら、魂はこの知らない間に通り過ぎてしまう事のすべてを、必ず感知しているのですから。
愛するあなたへ。
生きることは、砂漠に降った雨のように、稀な事でありながら、その事さえもすぐに消えてしまう夢のようです。 けれども、その雨が消える短い姿は、立ち昇る熱気の揺らぎとなって、本当にかすかに、それでいて確かに熱く、目の前の空気を振るわせるのです。 あなたという命の熱を、私は肺の深くに収め、そして私の命の熱が、あなたの肺の深くに有る限り、世界がどのような力によって区切られていても、私はあなたであり、あなたは、私なのです。 私が、あなたである時、あなたの思いは私の思いであり、だから、こんなにも強く会いたがっているのは、本当は私なのです。 そしてあなたが私であるとき、この狂おしいほどの淋しさは、本当は私が淋しいのではなく、本当はあなたが淋しがっているのです。 だから、私が悲しいとき、それは、あなたが悲しいのであり、あなたが泣いているとき、本当は私が泣いているのです。 あなたが何かを祈るとき、それは私の祈りであり、そして私が笑うとき、それはあなたが笑っているのです。 私は、あなたの中に生きる命であり、あなたは、私の中で生きている命なのです。 それ以外の私はなく、それ以外のあなたもいない。 私は、あなたの肺の深くで生きる、あなたなのです。(意訳)
人は、別々の身体の中に分けられた一つの魂ですが、別々の身体の中にあっても、
それが同じ魂であるとわかるとき、人は、その互いの魂を引き付ける力を、愛と呼ぶのでしょう。
夫の霊に会いたい。
あなたの探している霊は、あなたを後ろ側から、いつもあなたを見守っています。
愛する皆さん・・・・・・
この記事をアップする前に、その知らない誰かの魂から、ありがとう、の言葉を受け取りました。
私たちは不思議な世界に生きています。 この世界は本当に不思議なのです。
だからそれを見れば、どんなキーワードで検索した結果、ブログにつながったのかがわかるのです。
私のブログの検索キーワードとして記録されたものの中に、
「夫の霊に会いたい」という言葉が、少し前から残されていました。
本当にこのキーワードでつながるのだろうか?
このキーワードを打ち込んで検索してみると、5番目のページの真ん中あたりでヒットしました。
「夫」や「霊」という言葉は出てこないのですが、「会いたい」という言葉でつながっているようです。
この言葉を通して、このブログへたどり着いた誰かは、
きっとまた、その先へも何かの手がかりを求めて、検索を続けたのではないでしょうか。
どのような思いで、どのような願いを込めて、この言葉を打ち込んだのでしょう。
霊の世界の不思議は、それが誰であるのを知らなくても、
そのエネルギーを十分に感知することによって、さらにその目的を検索し得ることにあります。
つまり、この誰かが捜し求めている、夫の霊にアクセスすることができるのです。
余計な事とといえば、余計な事なのでしょうが、
知らない誰かが、祈りを込めてこのブログに来て、私の知らない間に通り過ぎて行ったのなら、
その誰かの知らないところで、私が、その会いたい夫の霊の思いを伝えることも、
同じように、知らない間に通り過ぎて行ったこととして認められるものなのでしょう。
このことは、意味がないことのように思えても、本当は深い意味をもつことなのです。
何故なら、魂はこの知らない間に通り過ぎてしまう事のすべてを、必ず感知しているのですから。
愛するあなたへ。
生きることは、砂漠に降った雨のように、稀な事でありながら、その事さえもすぐに消えてしまう夢のようです。 けれども、その雨が消える短い姿は、立ち昇る熱気の揺らぎとなって、本当にかすかに、それでいて確かに熱く、目の前の空気を振るわせるのです。 あなたという命の熱を、私は肺の深くに収め、そして私の命の熱が、あなたの肺の深くに有る限り、世界がどのような力によって区切られていても、私はあなたであり、あなたは、私なのです。 私が、あなたである時、あなたの思いは私の思いであり、だから、こんなにも強く会いたがっているのは、本当は私なのです。 そしてあなたが私であるとき、この狂おしいほどの淋しさは、本当は私が淋しいのではなく、本当はあなたが淋しがっているのです。 だから、私が悲しいとき、それは、あなたが悲しいのであり、あなたが泣いているとき、本当は私が泣いているのです。 あなたが何かを祈るとき、それは私の祈りであり、そして私が笑うとき、それはあなたが笑っているのです。 私は、あなたの中に生きる命であり、あなたは、私の中で生きている命なのです。 それ以外の私はなく、それ以外のあなたもいない。 私は、あなたの肺の深くで生きる、あなたなのです。(意訳)
人は、別々の身体の中に分けられた一つの魂ですが、別々の身体の中にあっても、
それが同じ魂であるとわかるとき、人は、その互いの魂を引き付ける力を、愛と呼ぶのでしょう。
夫の霊に会いたい。
あなたの探している霊は、あなたを後ろ側から、いつもあなたを見守っています。
愛する皆さん・・・・・・
この記事をアップする前に、その知らない誰かの魂から、ありがとう、の言葉を受け取りました。
私たちは不思議な世界に生きています。 この世界は本当に不思議なのです。
2009年04月28日
神秘学のメソット
愛するみなさん・・・・
神秘学の神秘修業のすべては、
あらゆる行為に際して、
どれ程の内的真実と絶対的誠実をかけ、
どれ程の力をこめて自分自身と向き合うことができるか、
しかも、その自分自身を
まったくの異邦人と見做すことができるかにかかっています。
霊的自我のその認識は、永遠の真理の霊によって、
その行為は、永遠の善によって決定されねばならないのです。
心に刻むべきは、
後悔のない善であること、 その同じ真であること。
愛するみなさん・・・・
敬愛するシュタイナーの上記の言葉にふれるとき、
私たちの心の中に、偽りのない中心が備わっていることがわかります。
霊能力は、それをなしえる技術にではなく、
それを求める姿勢によって、その奥の扉が開かれるのです。
今度このブログが再開されるまで、しばらくの間、静かな学びの中に沈潜しましょう。
神秘学の神秘修業のすべては、
あらゆる行為に際して、
どれ程の内的真実と絶対的誠実をかけ、
どれ程の力をこめて自分自身と向き合うことができるか、
しかも、その自分自身を
まったくの異邦人と見做すことができるかにかかっています。
霊的自我のその認識は、永遠の真理の霊によって、
その行為は、永遠の善によって決定されねばならないのです。
心に刻むべきは、
後悔のない善であること、 その同じ真であること。
愛するみなさん・・・・
敬愛するシュタイナーの上記の言葉にふれるとき、
私たちの心の中に、偽りのない中心が備わっていることがわかります。
霊能力は、それをなしえる技術にではなく、
それを求める姿勢によって、その奥の扉が開かれるのです。
今度このブログが再開されるまで、しばらくの間、静かな学びの中に沈潜しましょう。
2009年04月24日
迷いの本質
心を決めることの難しさは、始めから決めていたその一本の心の糸を、
他の無数の糸の束の中から選び出すことに似ています。
引き出された答えがそこに有っても、
それが決めていたその一本の糸に繋がる心ではないとき、
人は、その答えを受け入れることができずに、
もう一度、その答えを求める衝動に突き動かされていきます。
迷いとは、本質的には、何かに対する答えについて迷っているということではなく、
始めから感じている心の答えが、
その結論と同じものに成らないことに対する、不満足な感覚なのです。
人は、すべての答えの中に自分自身を見るものであり、
結局のところすべての答えは、自分を知るための鏡なのです。
鏡に近づきすぎると、映された像を見ることができなくなります。
そして遠すぎても、映された像は見えなくなってしまうのです。
鏡という答えは、そこに映される像という自分自身を見せてくれますが、
その鏡も、その像も、現実的には自分の心の中にある、
自分の真実と、自分の認識なのです。
人は、自分の事を自分で知っていると思っていますが、
本当は自分自身について、ほとんど何もその真実を知らないのです。
自分の答えは、その価値を認めることができたものだけが、
それに値するものとして、自分の中で認識されます。
価値は答えであり、認識は選択であり、
その二つを合わせたものが、この世を生きる自分という存在なのです。
これらのすべての鏡と像は、自分の心の中で反射しています。
そしてこの反射が、やがて心の外側にも流れて、個人の現実を生み出すのです。
私たちの現実の世界は、私たちの心の中で創られています。
運命とは、外側の世界で働くよりも先に、人の心の内側で作用します。
人が、この運命を自分のものとして動かすためには、
単純な真実を生きることが必要なのですが、
私たちは自分自身の本心を、単純に生きることができなくなっているのです。
人は複雑さの中で迷うのではなく、単純であることが難しいので迷っているのです。
しかし、単純になるために必要なことは、それもまた単純なものなのです。
ただ“素直”であること。
そのことだけが、私たちを幸福という岸辺に寄せてくれる力なのです。
愛する皆さん・・・・・・・・
魂と守護霊の間には、いくつもの鏡がおかれています。
守護霊とは、本当は私たちを守る存在ではなく、私たちの意志を守る存在なのです。
他の無数の糸の束の中から選び出すことに似ています。
引き出された答えがそこに有っても、
それが決めていたその一本の糸に繋がる心ではないとき、
人は、その答えを受け入れることができずに、
もう一度、その答えを求める衝動に突き動かされていきます。
迷いとは、本質的には、何かに対する答えについて迷っているということではなく、
始めから感じている心の答えが、
その結論と同じものに成らないことに対する、不満足な感覚なのです。
人は、すべての答えの中に自分自身を見るものであり、
結局のところすべての答えは、自分を知るための鏡なのです。
鏡に近づきすぎると、映された像を見ることができなくなります。
そして遠すぎても、映された像は見えなくなってしまうのです。
鏡という答えは、そこに映される像という自分自身を見せてくれますが、
その鏡も、その像も、現実的には自分の心の中にある、
自分の真実と、自分の認識なのです。
人は、自分の事を自分で知っていると思っていますが、
本当は自分自身について、ほとんど何もその真実を知らないのです。
自分の答えは、その価値を認めることができたものだけが、
それに値するものとして、自分の中で認識されます。
価値は答えであり、認識は選択であり、
その二つを合わせたものが、この世を生きる自分という存在なのです。
これらのすべての鏡と像は、自分の心の中で反射しています。
そしてこの反射が、やがて心の外側にも流れて、個人の現実を生み出すのです。
私たちの現実の世界は、私たちの心の中で創られています。
運命とは、外側の世界で働くよりも先に、人の心の内側で作用します。
人が、この運命を自分のものとして動かすためには、
単純な真実を生きることが必要なのですが、
私たちは自分自身の本心を、単純に生きることができなくなっているのです。
人は複雑さの中で迷うのではなく、単純であることが難しいので迷っているのです。
しかし、単純になるために必要なことは、それもまた単純なものなのです。
ただ“素直”であること。
そのことだけが、私たちを幸福という岸辺に寄せてくれる力なのです。
愛する皆さん・・・・・・・・
魂と守護霊の間には、いくつもの鏡がおかれています。
守護霊とは、本当は私たちを守る存在ではなく、私たちの意志を守る存在なのです。





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